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2021年03月11日

3.11、個人的あの日を振り替える


平成23年3月11日、この日のことは今でも鮮明に覚えている。ここでは当日とその後の覚えていることを書こうと思います。

当時、私は中学三年生だった。一週間後には卒業式を迎えて高校生になる時期だった。
3月11日、卒業前の球技大会で三年生のクラス対抗のサッカーが行われていた。
当日は審判もやって、結構楽しかった。卒業前で和気藹々という感じだった。
三年生は球技大会だけで昼頃には帰れた。
それから家に帰った。家に帰ると祖母、父親がいた。当日は金曜日だったが、その頃の父は金曜日が休日だったようだ。
早く帰ることは伝えてあったからどこかに食べに行こうという話になった。
そこでその頃、行き付けであった100円寿司に車で向かった。
当日のサッカーの話を中心に談笑しながら食べていた。
暫く経ってから三人とも食べ終えていた。
お茶をのみながらそろそろ帰ろうかなと話していた時だった。


14時46分、時計を見ながらそろそろかなと思っていたら少し僅かだが揺れた

「ん?」と発した直後にいきなり大きく揺れた

「いや、ちょっと待ってえええ」と思わず発しながら立った
すると祖母が今までに聞いたことない悲鳴がかった声で外に走り出そうとした。
思わず危ないと父親と掴んで制止した。
しかし、少し我に返ると店全体も揺れていて中にいては危険だと思い店の外へ

店の外に出ると自分の状況を確認した。まるで水の上にいるような感じだった

かなり揺れていて、暖簾が落ちているし、店の電源は落ちていた

店の代金の支払いはレジが機能しなかったのでレジの人たちが電卓を使って決済していたと思う

とにかく、皿は何枚も落ちていた

また外に出ると近くの交差点の信号機が付かなくなっていて、近くにいた人が信号係をしていた

大きな地震が発生したから家族のことも心配だった

姉は入れ違いで家に帰っていたらしいが、家も相当揺れたらしい

父親の運転で他の家族の迎えに行くことになった。母親と祖父はそれぞれいたであろう場所に迎えに行った。

細かいことは忘れたが、祖父は迎えに行って、母親は自分から帰ってきたはずだった

しかし、家に帰ってる最中にも余震があって、車を止めるな!と叫んだと思う
動いていれば揺れを感じないと思ったのだろう

家に帰ると近くの交差点では警察官が信号係をしていた。
私の住んでいたエリアはしばらく停電していた。ほんの少し先では停電してなかったが

救急車などが通ったことも覚えている。警察官が車を掻き分けて誘導していた。

家族は危ないからと家には入れなかった。しばらくは近くの公園にいさせた。

自分はというとテレビも付かないで揺れで散らかっていた家を見た。確かデジカメで何枚か撮ったと思う

元々散らかっていたが、それでも揺れで散らかったと分かるレベルであった

家では停電していたが水道は通じていたと思うが、トイレで水を流すと濁った水が出てきた。これは後にも先にもこのときだけだ。原因は不明だ。

父親らに水を出さない方がいいとは伝えた。ペットボトルに水を保存していたので、万が一にはそれを使えば良かったので、不安はなかった。

情報収集に使ったのが、車のカーナビだった

その時はガラケーで電話などは通じにくかったのとパソコン(Windows Vista)は持っていたがインターネットが普及しているとは言えなかった。

ニュースを見るにしても新聞紙とテレビが一般的だった

テレビを付けると震源地が東北であり、各地で大きな揺れを感じたことを知る

どこかは覚えてないが、リアルタイムで車などが押し流されるシーンを見た

通りかかる人が音だけを聞いていたので、大音量で流してあげた。周辺は停電していたので情報はこれしかなかったのだ。

上空からの津波、どこかの定点カメラの津波など

津波を初めて見た瞬間だった

地震と言えば火事のイメージがあったが、火事よりも衝撃だった。どこかの映像では石油が炎上していたと思うが

しばらくしてから携帯が通じるようになって、同級生らと連絡を取りあった

もう日は傾いていたと思う

近くのコンビニエンスストアが閉まっていた。コンビニはどんなときで開いていたので衝撃だった。その店が閉まったのは開店移転のとき、東日本大震災のとき、そして令和元年(2019年)東日本台風のときだけだ

手動で扉を閉めていたのをよく覚えている。東日本台風のときは土嚢を積んでいたな

母親の実家が秋田県なので母親は電話が通じると実家に電話していた。どうやら無事だったらしい

テレビを見ているとリアルタイムで大被害が起きてることはよく分かった。

死者が二万人を越えたというのを知ったのはいつだったかは覚えていないが、あのとき見ていた生放送の津波の中には人がいたのかもしれにいなと思わされ人の儚さを考えさせられた。

この前日は東京大空襲の日で、中学の帰り道に色々と同級生たちと被害のことで話していた

その翌日に災害でまた考えさせられた。

ニュースを見ると帰宅困難者たちが駅に寄せていた。当時はあまり深く考えていなかったが、大学に通うようになると帰宅困難者になる可能性があり、電車が不通になった場合にいかにして帰るかをよく考えるようになった。

良くも悪くも私の防災意識は東日本大震災が根幹にある。

今では転倒防止措置は進んでいるが、当時の我が家は防災処置なんて一部の大きいものだけで、あまり人がいない部屋では防災処置は皆無だった

それから転倒防止マットや突っ張り棒などでホームセンターにもよく行くようになった。

その日から揺れに気づくとドアを素早く開けるようになった。大きい揺れのときは尚更だった。

しかし、一方で対した揺れでないと慌てなくなったが、動きが鈍くなった。これが今後、マイナスにでないようにしなければ

それから暫くは地震の話ばかりだった。ニュースもテレビも学校でも

翌日の新聞一面に津波の写真、これは衝撃だった

当時の新聞紙はいくつか保存しているので、ときおり見ることがあるが、やはりそれだけ衝撃だったのだ

それから原発や電気に関するデマも飛び交った。
今でもサッカーを見に行く友人から"チェーンメール"が届いたことをよく覚えている

内容は東京電力管内では電力不足に陥って電気の蓄えがなくなるから関西から電力を譲って貰うらしいとか書かれていたと思うが

中2辺りの理科の授業で電気は今発電していること、蓄えられないこと、東京電力と隣の中部電力とでは電力の周波数が違うことは知っていたので、それはデマだと伝えてチェーンメールを止めた。理科系の科目は得意だとは思わなかったが、興味津々に受けていて良かったとは思った。

しかし、それでも原発に関する誤った認識は刷り込まれていたというのは今思えばある。
これに関しては細かくは記述しないけど

地震の後はまるで違う国だった。
停電が呼び掛けられて、卒業式でも突然停電するかもと言われたくらいだ。それでも卒業式自体は滞りなく終わった。

しかし、ニュースを見れば東北や原発のことばかりだった。

あと知らない人もいるかもしれないが12日には長野県で地震が発生している。これは元々知っていたが、今思えば東北の震災に書き消されてしまったのでは?と思う

これに関連した静岡での地震(3月15日)についてはかなり後に知った

卒業式の後にクラスの打ち上げがあった。中学生なので過度な飲食とかはしなかったが、お釣りは全額震災への募金に回した

それから暫くはコンビニとかではお釣りは募金にしていたと思う

近くの学校や施設では半旗がしばらく掲げられていた。首相の記者会見では弔旗だった。あれだけ長期間半旗だったのは東日本大震災のときだけだと思う。

私の高校の入学式(東京都では地域差もあるらしいが、入学式と卒業式では国旗が掲げられる)でも日の丸が半旗だった

私の住んでいた地域では三回くらい計画停電があった。自宅では祖母がよく蝋燭を炊いていたのを覚えている。

他の家でも計画停電で3000円ほど安くなったところもあるんだとか

今はないが、当時いかに原子力に依存していた(原発は3割)のと火力不足を目の当たりにした

先述の打ち上げの帰り、自転車で帰ってくると家の周辺は見たことのない闇だった。まるで別世界のように

見たことない光景だったが、はっきり言えば二度とみたくないな

LEDが注目されたのはこの辺りからだった。ただ我が家では完全LED化はされてないけど

都心に行くことが何回かあったが、東京タワーの先端が曲がっていたことが首都高速でも分かった。これは画像検索すれば出てくる。

それまで地震とはその瞬間のことでしかなかった。それ以前にも震度3とかの揺れは何回もあった

しかし東日本大震災だけは違った。10年前のことだが、今でも話題になるし、知らない人はいない。

大学に入ってからは地元ではない人たちとも交流した。それでほぼ必ず東日本大震災は出てきた。あの日を知らない人はいなかった。

留学生も同様だった。今でも交流のあるヨーロッパ系(ロシアなど)の留学生もその地震は知っていた。

それほど、大規模だったのだ

10年前、中学生でしかなかった。はっきり言えば災害というのも暫くすれば終わると思っていた。しかし東日本大震災では原発の処理は終わっていない。瓦礫などの問題はほぼ終わったかもしれないが

それでも福島の人たちへの偏見はなかった。福島の人と話すときは郡山だとか蒲生家や白虎隊の話をした。けして原発とは言わなかった

東日本大震災で政治的、感情的になる人も多く見てきた。個人的立場は書かないが、色々と考えさせられたのは事実だ。

この十年でもたくさんのことがあった。災害では熊本地震、令和元年東日本台風、広島の土砂災害など

日本という国は災害大国なんだと、かつては川の氾濫に悩まされたともそれで知った。

父親らに話をすると人生で一番記憶にある災害は断トツで東日本大震災だったらしい。

人生で一番の揺れだったからだ。

大正生まれの人に話を聞くと関東大震災の方が揺れが大きかったらしいが

あと緊急地震速報、あれはかなり染み付いた。何度か鳴った瞬間に祖母を無理矢理でも外に出したことがある。

幸い怪我もないが

平成23年3月11日、あの日のことは私の人生でも特に記憶した日であった。他によく覚えているのは祖父や母親が亡くなった日などだ。

段々終戦の話も片寄ってきているが、大学院にいても変化に気づく。学部一年生の子と話をしたら当時小学生でしたとのこと

今後、東日本大震災を知らない世代が出てくるんだなと感じた瞬間でもあった。

今でも当時の揺れの瞬間の映像などは見ることがある。寿司屋で揺れを感じた同時刻の瞬間の映像だからだ

これからも思いに更ける出来事になるのではないかと思う。


posted by 東京のガンバ大阪サポーター at 09:00| Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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